日教組発行「国立大学再生への道」の紹介とコメント

(全)(2月19日追加分)(2月22日追加分)

豊島耕一(佐賀大学)

 永井憲一氏を委員長とする日教組の「高等教育プロジェクト」が,行法化問題で緊急提言を発表していることについて前に簡単に紹介しました.「国立大学再生への道」--法人化の問題点と対策--と題する72ページの冊子です.(02年11月25日初版発行,本体700円) --目次と奥付はこちら--

 その内容をもう少し詳しく紹介したいと思います.というのも,その内容が日教組UPIセンター幹部の行法化容認の態度とは明らかに異なり,行法化に批判的な論旨をはっきりと打ち出しているからです.また,この文書は出版社が版権を持っているため,全文をネットで公表することができず,「書評」のスタイルでしか内容をお知らせできないからでもあります.推進側の文書がほとんどすべて「ユビキタス」(ubiquitous)状態であることを考えればこれは明らかにハンディキャップであり,日教組が何らかの処置を取ってくれることが望まれます.なおこのプロジェクトの副委員長,矢倉久泰氏は「独法化阻止全国ネット」の賛同人でもあります.

 第一章は98年のユネスコ世界宣言を幅広く引用しながら,これからの大学の理念と国立大学の果たすべき役割についての総論を述べています.「『国際競争力』から『国際貢献力』へ」というスローガンで経済と産業を軸とした競争主義を批判し,「国際社会においてあるべき大学の存在意義を示す理念を掲げて、その倫理的・道徳的威信を発揮することが、今こそ求められている」としています.

 「国立大学法人化構想の問題点とその影響」と題する第二章では行法化に対する本質的な批判が行われています.特に,第1節で「学問の自由、大学の自治は保障されない」と断じています.重要な部分なのでこの節を全文引用します.(なお,この章以降の分析・批判の対象となっているのは,02年3月の文部科学省調査検討会議の「最終報告」です.)

(1)国立大学法人化構想は何が問題なのか

質の高い高等教育、学衡研究は市場競争社会では実現できない

 教育や学術研究は、効率性といった一元的な価値によっての競争原理では質の高い創造活動が行えない分野である。「国益」や「産業的価値」、「知的財産」といった目標によってのみこれらを評価することは、21世紀の多様化した知識社会に見合わない。国立大学法人の評価が市場競争原理のみによって行われ、それが運営費配分にただちに結びつけられるとなると、特定の教育・研究分野のみに資源配分が行われやすくなり、大学問の格差が増大するだろう。

 また大学内部においても教育・研究分野間の競争が行われ、長期的視野に立った研究や基礎研究、教養教育など総合的人間知、社会倫理の責任知、社会科学の批判的知がなおざりにされかねない。競争原理により産業界との連携が強まるが、大学の運営理念は本来企業とは異なるはずである。

 国立大学の公共性と条件の均等性が維持できない

 国費によって運営される国立大学においては、社会的公共性と教育の機会均等が重視されるべきである。ところが法人化構想によって大学自由市場が出現すると、競争原理によって、自己の大学のみの利益拡大と業績が重視されることになり、国立大学としての公共性が薄れていくことが懸念される。「個性ある大学」を標梯して大学業績の独自性が評価され、各大学が研究大学、職業人育成大学、教養大学へと目的別に特化されて格差が広がり、地域における総合大学の理念が後退して、市場における「私事的利益」が公共性より重祝されてしまうことにもなりかねない。

 また教育・研究条件の均等性は「トップ30(21世紀COE)」に象徴されるように、重点的資金投資により、ますます軽視されていく。現状のように教育・研究条件が不均等なままでは、最初から公正な競争が成り立つはずがない。

 学問の自由、大学の自治は保障されない

 法人化制度によって大学の自治は保障されなくなる。本来、大学の自治の核であるはずの各大学における中期目標・中期計画は文部科学大臣の認可事項になる。教職員が非公務員型になることで、職務における公共性が希薄になり、それにともなう身分保障も手薄になる。また業績評価によって学問の自由といった大学の自治・自律の基盤が失われていく。

 運営組織に意思決定における貢任範囲のあいまいな「学外者」を加えたり、学長・役員会主導の運営が行われると、高等教育・学術研究を担う教授会の自治そのものが消滅しかねない。大学の自律性は法人化によって逆に保障されなくなるであろう。さまざまな機関により重複して実施される「大学評価」は,ぞれらが資金配分と直結するだけに、学問の自由、大学の自治を著しく制約することになる。

 初等中等教育にも影響を与える

 法人化構想における高等教育・学術研究への競争原理の導入や、それに連動する公共性の喪失は、初等中等教育における公教育の原理と教育の機会均等にも影響を与える。

 トップ30のような大学へ重点投資を行う政策は大学問の格差を広げ、トップに位置づけられた少数の大学への受験競争が激化する。それにともなって初等中等教育の中にも受験に対応できる学校とそうでない学校との「棲み分け」が生じたり、家庭の経済状況によって進学への優劣が生じてくる。また初等中等教育では児童生徒の個性を育成する教育を重視しているが、進学先の大学では市場価値のある分野の教育環境のみが優遇されて整備されることとなる。国立大学の統合とあいまって、子どもたちが学びたい分野に進学できる機会が極端に狭まることになり、個性の育成という初等中等教育が進めてきた教育の理念は、大学進学と同時に断ち切られることとなる。地方を中心として教育機会の格差が広がることも懸念される。

 競争原理を導入した教育政策は、今日の初等中等教育においても同様に見られる傾向にある。規制緩和の一貫として学校選択の自由の名のもとで学区制が撒廃されることにより、学校間競争の激化が懸念される。中高一貫や学力向上フロンティアスクールなどの学力向上のための一連の政策は、一部の学校への教育環境の充実を意図するものであり、公教育の機会均等の観点からの疑義は免れない。校長や教員への学外者任用も、公教育の中立性、自律性を脅かすとともに、教育における専門性の必要性が軽んじられることが懸念される。「特色ある学校づくり」の名のもとに各学校に持色をもたせ、学校評価制度でそれらの評価が行われるため、校長のトップダウンで学校が運営され、教職員間の共通理解が得られずに混乱している現場も少なくない。

 初等中等教育、高等教育を問わず競争原理の導入は公教育には馴染まない。私たち国民はそれらの政策理念を支持しないという意思表示を,この機会に明確に政策責任者に伝えていくべきである。

 二章の2節では,国立大学「法人化」の影響を,地方国立大学の役割変化に対する地域への影響,教員養成への影響,附属教育機関への影響の三つの側面で分析しています.3節では,この制度がまさに行法化の枠内のものであることを,日教組による文部科学省からのヒアリングを根拠に次のように述べています.

 「報告」で提案された国立大学法人制度は、「独立行政法人という仕組みの中での特例」としての性格をもつ(2002牛4月25日文教科学委員会工藤高等教育局長答弁参照)。

 日教組が文部科学省から行ったヒアリングにおいても,「報告」に記述されていない事項であっても独立行政法人通則法に規定されている事項は,すべて国立大学法人にも適用されるということが確認された(2002年6月27日実施されたヒアリングにおける回答)。

 このように,「法人化」が行法化そのものであり,大学に適合するものでないと断じながら,この章は「2004年度にいっせいに法人化を行うというスケジュールでは、検討に無理が生じる」,「せめて施行予定の期日を延期して十分な議論と準備の期間を設けることが必要不可欠」という言葉で結ばれているに過ぎません.論理的一貫性という点で不満が残ります.

第三章「目標・計画」では,この制度が持つ官僚支配の中心テーマが扱われています.そして文部科学大臣が指示,認可するという制度を次のように批判しています.

 「報告」にあるように、国としての政策判断や相当の予算措置を要するような大規模な教育研究組織、学生収容定員及び施設整備については、文部科学省からの運営費交付金及び施設整備関係予算の配分を受ける必要から、文部科学大臣の認可を受けることについて異論はない。

 しかし、目標・計画の全体を大臣の認可に係らしめるという制度には、それらが認可されない可能性も同時に存在する。

 また文部科学大臣は各大学の中期目標・中期計画について、あらかじめ「国立大学評価委員会」(仮称)の意見を聴かなけれぱならないとされている。委員への意見聴取によって国からの一方的な不許可に対する歯止めとするとの考え方もあろうが、委員の任命そのものを文部科学大臣が行うことを考えると、国の関与そのものがこれによって否定されるわけではない。大臣に対する「配慮義務」との規定の仕方もあいまいである。

   (中略)

 本来、中期目標・中期計画は、大学がその運営の必要から各々定めるべきものである。したがって盛り込むべき内容や対象とする期問を一様に国が定めることは観I!染まない。「大学は、自主的に目標・計画を定め、公表する」との趣旨の規定を置けば十分であろう。

 この節の最後は「誰に対してのアカウンタビリティか」と題して,教育基本法が10条を引用しながら「官」への似非アカウンタビリティを批判しています.

 教育研究活動は、その本質に照らして国民や社会に直接に働きかけ、貢献する文化的な営みであり、教育基本法が10条で、「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。」と定めるのも、そのような理念を具現化したものである。

 そのような教育研究活動の本質を考えれぱ、国民や社会に対する説明責任は、「国」を仲介して果たされるべきではない。納税者への理解にしても、それは各大学が直接に国民・社会に働きかけるべきものであって、決して理解の相手方は「納税者の代表としての主務大臣」ではないはずである。

(以下,2月19日追加)

 第四章「組織と業務」では,管理運営組織について分析されています.監事や役員の任用資格について,地方自治体で監査委員に元職員の就任が制限されているなどの例を引いて,「国立大学法人においても監事や役員の職務の公正性を担保する趣旨から、当該大学の元役職員及び元文部科学省の職員については監事や役員への就任は認めない規定を設けるべきである」としています.また,「大学の自治を担保するために主務大臣の意思決定の影響を受けないことが要請されることから、その役員についても文部科学省の職員であった者の就任は制限することが必要である」と述べています.
 評議会と運営協議会については,「頭でっかち」を批判して次のようにのべています.「教授会の大学運営へのかかわりを高め、評議会の委員は教授会の意思を代表する者を中心とすればよい。また『運営協議会』を別途設ける必要もないのではないか。」「教授会における審議事項を真に学部等の教育研究に関する重要事項に精選する一方、学部長等の権限や補佐体制を大幅に強化する、という仕組みでは、教員の意向が大学運営に十分反映できる仕組みにならないように思われる。」
 学外者の登用については,「非常勤の身分で稀に出校し、大学の運営面を左右する重要な意思決定に参画することに対する不安は拭えない」として,財政や人事に関して決定権限を持つことには反対しています.
 一方,学生の意見を反映させる制度や組織についての記がないことを指摘し,学生が大学運営に一定のかかわりをもつことは重要なことだと述べています.

 第五章の「人事制度」では当然「非公務員型」の問題が議論されています.教員は非公務員型の方が兼職・兼業等の服務に関する定めが柔軟になるからメリットが大きいが,職員については身分保障が保たれない危険性があるのでデメリットの方が大きいとしています.すぐ後ろの「教職員の処遇」の項目では「教育公務員特例法はこれまで大学教員の身分保障として機能してきた」と述べています.にも関わらず,そもそもの雇用形態の問題でこの法律に言及することなく「非公務員型」を教員に対して肯定するのは腑に落ちません.「学問の自由」と身分保障との関係を強くは認めていないのでしょうか.

 第六章「大学評価」では,評価結果を国立大学の予算配分に直結させることと,評価する主体の「第三者性」とを問題にしています.
 前者の問題を指摘して次のように述べています.

 理由はともかく、評価の目的が予算査定に収飲することになる。つまり、国立大学の教育研究を国が評価した結果、中期目標・計画の成果(達成度)の上がっていない大学には予算配分を少なくするということである。すぐに学術の発展に貢献しなくても貴重な基礎的研究を長期問にわたって行うことは国立大学の責務であるから、達成度が低くても、そうした研究を支援するために予算をつけるべきだが、報告書には、何をもって「成果が上がっていない」「目標を達成していない」とするのか、その評価基準が明示されていない。あいまいな基準で評価され予算査定をされるのでは、大学はたまったものでない。
 結局、文部科学省は国立大学を法人化して「大学の自主性・自律性を尊重する」と言いながら、大学予算の財布の紐はしっかり握って、大学をコントロールしようとしていると受け取られても仕方がないだろう。
 大学の自主性・自律性を尊重するのであれぱ、評価結果を予算査定に利用せず、むしろ現行のように学生・教職員の数などをもとに予算配分を行うとともに、予算の使い道をある程度自由にする方が「各大学の個性ある発展を促進」(報告書)できるのではないか。

後者の問題点ととしては次のように指摘しています.

 一つは、国立大学評価委員会を文部科学省に設置することである。その理由として報告書は「国立大学法人の待殊性及び国立大学法人全体の規模の大きさを踏まえ、より効率的・効果的な評価を実施するため」と述べている。そしてその委員は「社会・経済・文化等の幅広い分野の有識者を含め、大学の教育研究や運営に関して高い見識を有する者」で「各分野において国際的水準の活動に従事した経験を有すること等を基本的な要件とする」としている。
 委員の資格要件は是認できるとしても、人選を行うのは文部科学省である。これまでの文部科学省の各種審議会委員がそうであったように、国の政策に批判的な委員は選ぱれないだろう。したがって人選の透明性と信頼性の確保が極めて重要になってくる。そのことを文部科学省はどう考えているのであろうか。
 もう一つは、大学の自治侵害のおそれがあるということである。委員会を文部科学省の直轄として国立大学を「総合的に評価」し、教育研究に関する評価は、これも文部科学省直轄の大学評価・学位授与機構が受け持つことは、「大学の自主性・自律性=大学の自治」「教育研究の自由」の保障との兼ね合いで疑問である。国立大学評価委員会が大学の自治を侵すような評価をしたら、総務省の評価委員会が大いに批判的な意見を述べてもらいたいものである。

 誰が評価すべきかについて,この提言は「国の直轄を排除して、日本学術会議や学会、大学基準協会のような教育者・研究者で構成される主体的・自律的な集団が、ピアー・レビュー(同僚による評価)をすべきだと考える」と述べています.そして「文部科学省が国立大学の主体的・自律的な大学改革を期待するならば、評価から手を引くことである」とまとめています.
 評価方法については,「報告」が述べるような主観的な評価を批判すると同時に,数値評価も避けるべきであるとしています.そして,「評価には評価を受ける側からの信頼がなければならない」ので,「教育研究の評価方針、評価事項、評価基準、そして客観的で公正な評価方法の開発が必要」,「評価による大学の画一化を防ぎ、個性ある発展を促進するためには、評価のモノサシ(評価基準)を一つにするのではなく、多様なモノサシを用意」すべきだと述べています.
 この章の最後,51ページの「残された法制上の諸問題」という節の中に,「言うまでもなく従来の国立大学は国の行政機関としての位置づけであった」という文部科学省の言説が無批判に繰り返されているのは気になります.しかし,この節では総務省による評価の問題点として次のように重要な指摘をしています.最後の部分を全文引用します.

 しかし現在の総務省は、I日総務庁が実施していた行政監察のみならず、中央省庁等改革の一環として新たに導入された「政策評価」という新制度をも新たに所掌している(総務省設置法4条17号)。具体的にぱ独土行政法人に関しては、総務省は政策評価に関連する部分に限ってその対象としている(同条19号イ)。他方、I日総務庁が実施していた行政監察に当たる「業務の実施状況の評価及び監視」(4条18号)は、主務省に設置される独立行政法人評価委員会と、同委員会に対する総務省評価委員会のメタ評価の仕組みの中で行われることとなった(注1)。
 これまでの行政監察に当たる「業務の実施状況の評価及び監視」は、「政策を前提として合規性、合目的性、効率性、経済性の観点から行われる行政評価・監視」が中心であった。一方、総務省が新たに所掌することとなった「政策評価」は、「政策の必要性、優先性、有効性等の観点から行われ、政策の改廃を視野に入れたもの」と解されている(注2)。
 このように、総務省評価委員会の所掌事務はI日総務庁の行政監察とは性格が異なるものである。したがってI日総務庁に国立大学に対する行政監察権限があったことをもって、学問の自由という憲法上の要請がある国立大学について、他の独立行政法人と同様に総務省評価委員会の評価に係らしめることをよし、とする理由にはならない。
 国立大学は法人格をもっても、その本来の任務が教育研究にあることに変わりはない。憲法23条で保障されている学間の自由には、「大学が外部の勢力に干渉されることなく学問研究および教育という本来の任務達成に必要なことがらを自ら決定する」大学の自治が含まれていると解される(注3)。その本来、任務に関する必要性、有効性等について廃止を含めて勧告し、その勧告が尊重されなけれぱならない総務省評価委員会の評価の対象として国立大学法人が位置づけられることは、認めることができない。
(注1)宇賀克也r政策評価の法制度3有斐閣、2002年、9頁。
(注2)同上書、8頁。
(注3)田中舘照橘『大学教育行政の法理論』信山社、2000年,36頁。

(以下,2月22日追加)

第七章,財務会針制度
この章では,現行と独立行政法人制度とを簡単に比較した後,問題点を次のようにまとめています.

 大学間の競争と格差の拡大
 現行制度と違って、国の予算措置=運営費交付金自体が「評価」という競争にさらされることになり、この制度の運営次第では大学問にかなりの財政力の格差が生ずる可能性がある。特にこの結呆、大学問で給与・手当に格差が生ずる可能性がある。この格差が大きけれぱ、国立大学教職員が言わば大学ごとに差別化されることとなり、国立大学の使命である教育条件の均等化を大きく損なうおそれがある。
 最悪の場合、運営費交付金が削減される結果、学生納付金の引き上げのやむなきにいたり、その結果、「評価は低く授業料は高い」社会的にマージナルな国立大学が出現し、やがて淘汰される、という可能性も否定できない。

大学内の競争と格差の拡大
 運営費交付金の配分が学生数等を指標とすることから、部局・学部・学科間での予算配分も学生数に応じた機械的なものとなることが懸念される。学生数の少ない学科等や、学生定員のない教育センター・研究センタ一等の組織に対する予算配分が不利な扱いを受ける可能性があり、国立大学としての本来の責務を果たす上で重要な業務の実施が困難になることが予想される。
 また運営費交付金の積算で、教員数に応じた予算が確保されないことから、学生の教育指導を直接担当しない助手・技官等の給与の負担を重荷に感じ、彼らを構成員に加えることに懸念を示す学科等の組織が出てくるなど、学内運営に混乱が生じることも予想されよう。運営費交付金において人件費分を確実に措置しなければ、大学運営の基盤に揺るぎが生じても不思議はない。
 さらに給与・手当の決定が各大学法人に委ねられる結果、教職員の研究費どころか、給与・手当そのものが一種の業績主義(論文数、受講学生数、外部資金の導入度合い、「社会的貢献度」などに応じた給与配分)にのっとったものとなり、同一大学の教職員間で大きな格差が生ずる可能性がある。

自己収入への過度の依存
一般に運営費交付金の金額が不十分である場合、また特に評価により運営費交付金が削減される場合、各大学法人が寄付金等の獲得に遇進し、教育や基礎的な研究が疎かにされるというような事態が生ずるおそれもある。

 大学内での問題点を指摘した後者については,「私立大学は皆そうなのか」という反論が当然予想されるでしょうが,「初期故障」として起こりうることを予測していると見ることもできるでしょう.
 最後に「予算配分のありかた」として,次のような指摘をしています.

「評価と大学予算は基本的には切り離すべきである。」
「大学側の努力にもかかわらず当初掲げた目標を達成することができなかった大学に対して、教育研究環境の未整備がその要因である場合には、その「底上げ」を行うために国民の税金を用いることが、教育の機会均等を実現し、国立大学の責務を果たすことにつながるものと考える。」
「人事関連の指針・基準のみならず、予算配分に関しても、原則は各大学がその裁量の範囲で行いつつも、国立大学の責務を果たす上での基本的な考え方については、一定の方針が国から示されることがむしろ望ましいと考える。」
「国または第三者機関が、国立大学全体としての給与・手当についての適切な標準を設けることで、大学間、大学内の教職員問の過度の格差の発生を阻止するべきである。また、運営費交付金は学生数のみならず教員数も確実に積算し、大学の運営基盤を確実なものにする必要がある。」

 最後の「長期的な大学制度ビジョン」と題する第八章は,「最終報告」から離れて,この委員会独自の長期的ビジョンを次の四項目にわたって提案しています.

 @大学コミユニティの設立
 A学外者オンブズマン制度
 B大学間連合の推進
 C職能別大学組合の提言

 この章には「国立大学法人化によって長期的な大学行財政改革は避けて通れなくなった」とか,日教組の過去の提案に言及して「国立大学法人化によってこの二つの提案の重要性は強まった」など,行法化を前提とした表現が見られのは大変気になります.しかし提案自体は重要で意味深いもののように思われます.

 「大学コミユニティ」とは,「現在の文部科学省の大学行政の権限をすべて切り離して移した独立の」「大学の集団的自治の組織」とされる.それは次のように編成されます.

 文部科学省から切り離された権限を持つ組織が事務の中核を担い、国立大学協会や日本学術会議、大学基準協会、私立大学や公立大学組織の代表者も含み、さらに産業界や文化界のメンバーも加わるが、過半数は国公私立大学の教員、研究者、大学研究の専門家、事務専門職からなる。

そして次のような機能を持つとされます.

 大学コミュニティは、高等教育、学術研究に関する長期計画を策定し、大学行財政の重要事項を検討することを目的とする。あくまでも各大学の自治、白主性をもとに、その質の向上と国民への公開性と説明責任を負う。適正な予算配分の決定も行う。この財政配分は大学コミュニティが各大学と財政契約を結び、多元的評価機関の業績評価にもとづき配分を行い、責任は各大学と大学コミュニティが負う。

 「学外者オンブズマン制度」は,行法化が提案する学外者の運営参加を批判し,また同時に「国民や社会に対する情報公開と説明責任を重視」するために提案されています.これは,「公共性の観点からは、国立大学法人の大学運営が民主的になされているか、外部から社会が注祝し、苦情中し立てを処理する機能」を持つものですが,行政オンプズマンとの性格の違いや,その積極的な意味を次のように述べています.

  あくまでも苦情申し立てとその処理に重点を置き、勧告は大学の自治による修正を望む機能にとどまるべきである。また市民の概念を広げ、大学の学生や教職員も含んだ「大学人」も、地域社会の市民であるかぎり苦情申し立ての権利がある。
 オンプズマンは学長が評議会の同意を得て任命する。しかし「学外者」の内部運営への参画以上に、「大学の自治」と公共性による「開かれた大学」との間の調和がとれる制度である。特に地域社会に根づいた国立大学法人には、地域社会の市民の参画機能は必要である。初等中等教育の教員や生徒・学生、父母、市民、産業界、研究機関など地域社会の中での開かれた大学運営をめざす上で、国立大学の教育・研究機能を注視するオンブズマンは重要な役割を果たす。

 この種の「市民参加」に関する提案は極めて少なく大変貴重であり,内容的な検討に十分に価するものだと思います.
 次の「大学間連合の推進」は,現在の機械的な「統合」に代わるものとして重要だと思われます.
 「職能別大学組合の提言」では,「各大学の教職員による一大学一組合という大学別組合組織がいま想定されている」が,それは当然としても,「大学においては、産業界以上に職能別のヨコの連携による組合組織が必要」として次のように提案している.

 大学別組合は現場の単一組合としての拠点となるが、併せて職能別の全国組織を作っていく必要がある。たとえぱ各専門分野の教員を構成員とする教員全国組合が必要であり、医学部ならぱ医学教員組合が全国組織として結成される。大学運営のための職員は職員全国組合を結成する。また大学構成員として学生全国組合を組織する。この三者がギルド化しないためにも、常時開かれた協議機関を設ける必要がある。

むしろこのような全国単一組合は現状でこそ必要なのかも知れません.大学当局は賃金などで当事者能力を持たず,かと言って単組では国と直接交渉はできないのです.全大教は「連合体」とされ,全国単一組合組織ではありません.

 以上,この文書は「独立行政法人化反対」「阻止」を明言してはいないものの,内容的には行法化を否定したものになっています.是非ともこれが日教組の政策に反映することを期待したいと思います.日教組について,文部科学省との「パートナー路線」という言葉を聞いたことがありますが,本当のパートナーであれば相手の悪いところは率直に指摘するはずだと思います.