答申は法ではない

佐賀大学 豊島耕一

 大学審の答申が公表されましたが,大学,学部,あるいは学部長会議などで,これへの「対応」と称して,これに先回りして各大学の政策の検討を始めたり,内容を実施しようとしたりするような動きが十分予想されます.しかし「答申」はもちろん法律ではなく,その中に書かれていることは行政側の単なる方針案,つまり文部大臣へのアドバイスに過ぎません(注1).この内容の妥当性についての大学自身の見解の表明もなしに,まして十分な吟味もなしにこれを実施したりすれば,大学の独立性と見識を疑われることになるでしょう.いわば行政との「癒着」です.また,もし関連して法改正があるとすれば,それを待たない「先回り」には国会軽視,国民軽視の罪が重なります.付け加えれば,大学側が,他の諸団体や個人が発表する大学についてのさまざまな意見などと比べて「答申」だけを不釣り合いに重視するとすれば,これも問題です.むしろ大学というものは本来,官製の言説には警戒的であるべきなのです.

 残念ながら大学の,特に国立大学のこのような官僚依存・国民軽視の体質には根深いものがあり,その原因の一部は文部省の権限に関する長く続いている誤解にあると思われます(注2).文部省設置法6条の2項を思い出し,今こそ文部省と大学との関係を法律どおりに「正常化」することが重要ですし,また今までのこのような「良い子レース」が何をもたらしてきたかをこれまでの「改革」の結果を見て反省することも必要でしょう.「エージェンシー化」しなければ独立性が得られないということではないのです.各地で開かれるであろう学部長会議がこの「良い子レース」の新しいスタートにならないように,関係諸方面の方々は十分に気を配っていただきたいと思います.因みに今度のレースの「餌」と「罰」は,おそらく,どの大学が国立で残れるか,それとも「エージェンシー化」されるかということになるのでしょう.

 批判勢力であるべき労働組合のメンバーも,組合が全国単一でなく「一大学一組合」を基本とするいわば「企業内組合」であるため,大学教員全体あるいは日本の大学全体のことよりも自分の大学の「利益」を最優先させるという態度を教授会などでとりがちで(多くの場合「沈黙」によって),このことが今日の大学の「オール与党」的状況にかなり寄与しています.しかしこれからは「不作為の責任」が問われる時代ですから,沈黙は常に無罪というわけには行きません.教員には,個別の大学のメンバーとしてだけでなく,教授会の中での孤立も恐れないような,アカデミズムの一員としてのもっと一般性のある態度が要求されるのではないでしょうか.少なくともこれら二つの態度の間でのバランスをとらなければいけません.
(メールグループ大学改革情報への11月13日付けの投稿をわずかにversion up しました.)

(注1)今回はこの答申に中心的にかかわった有馬氏が文部大臣になったので,文字どおりの「自作自演」という形になっています.
(注2)拙文「文部省の違法行為・従順な大学」を参照下さい.(「科学・社会・人間」53号,95年7月発行)
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